推定有罪?

こんばんは。

こばやし鷹之です。

今日は仕事の合間に、娘の4か月検診に行ってきました。

同時に初めての注射。BCGの予防接種です。

「何だろう、これ?」

といわんばかりのキョトン顔。

打たれた瞬間に、大泣きです(笑)。

いつもお世話になっている小児科の先生はもう70歳を超えています。

「赤ん坊には未来がある。」

そう言いながら優しく診察して下さる姿を見ていると、世代間の絆のようなものを感じました。そして、

「政治の世界にも、未来にきちんと責任を持てる若いもんがどんどん飛び込んでいくべきだ」

先生、頑張ります!

さて、最近は検察に対して世間の厳しい視線が注がれています。 その契機となった事件の一つが、みなさんご存知の障害者郵便の不正利用問題です。

実は当時の村木局長が逮捕・起訴された直後に、同局長と働いたことのある知人が「そういう方では決してない」と話していました。

今思えば納得がいきますが、直接存じ上げない立場の人間としては、正直、「はいそうですか」と信じることはできませんでした。

何故なら、有罪率が99%を超えるとされるこの国では、「起訴≒有罪」とのバイアスがどうしてもかかってしまうからです。

今回の事件について言えば、二つの問題があったのではないかと個人的には考えています。

一つは、担当者の責任です。 それだけ高い有罪率の裏には、有罪の立証が難しい案件は起訴しないとする検察の姿勢があったわけです。そのような中で、自らのシナリオに囚われてしまった、すなわち、客観的な見方ができなかった担当者自身に大きな責任があったことは否定できません。

もう一つは、有罪率という数字の呪縛です。

私も検察に数多くの知人がおりますが、これだけ高い有罪率を「誇る」検察組織の内部では、いったん起訴すれば有罪に「もっていかなければならない」という意識が働くのは事実だと思います。

個人のレベルで考えれば、無罪となれば、検察組織の威信を傷つけたとのレッテルが貼られ、昇進の可能性が閉ざされるわけですから、分からないでもありません。

ただ、無罪が結果ではなく前提となってしまえば本末転倒です。

今回の事件にも見られるように、検察組織の内部では、「無謬性」にあまりにも大きな価値が置かれている現実がある気がしてなりません。

罪の無い人間を起訴することは人権侵害でもありますから、間違わないに越したことはないのですが、そうは言っても私たちは神ではありません。

間違うことだってあるんです。

だから、裁判という公正なプロセスを設けているわけです。

しかしながら、その裁判を公正中立に裁く裁判官でさえ、起訴案件に対して無罪の判決を出すことには大きな心理的な抵抗感を抱える傾向がこれまであったわけです。 無罪判決を出した裁判官は、キワモノ扱いされてきたわけですから。

無罪に対する恐れをどこまで払拭できるのか。 極めて難しい課題ですが、裁判員制度の導入をはじめ、我が国の司法制度が変わりつつある中で、新たな仕組みの構築に取り組んでいく必要があると思います。

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